酒米「雄町」を発見・育種した篤農家・岸本甚造氏の足跡をたどりたくて

岸本甚造氏碑

1859年(安政6年)、伯耆大山参拝の帰途に見つけた2本の変わり穂を持ち帰り育種した篤農家・岸本甚造翁。
現在の岡山市中区雄町にある住宅街の一角には、その功績を顕彰する石碑が静かにたたずんでいる。
そして当時の血統を継ぐ「雄町」は今も四大酒米の1品種として全国の造り手を魅了し、オマチストと呼ばれるファンから愛され続けている。
発見から165年の月日が物語る紆余曲折の歴史もまた、人々を惹きつけて離さない。

一方で、語られてきた史実は、口伝やわずかに残る資料が頼りだ。
たとえば酒造米としての優秀性にほれ込み、私財を投じて全国の酒造家を訪ね 雄町の素晴らしさを説いてまわったとされる赤磐郡軽部村長の加賀美章氏に関する詳細な記録は、当時の村役場が火災に遭い焼失してしまったため残されていないと聞いた。

詳しい資料がないという点では、かの岸本甚造翁においてもしかりである。

のちの雄町につながるあの二本の穂は、実際のところどのあたりで発見されたのか(伯耆大山参拝の帰途ということは、岡山県内で見つけた可能性もゼロではないわけだ)。
岸本甚造翁の功績は、岸本家内でどのように語り継がれ、受け継いできたのか。

かくいう自分はこれまで、岡山にいながら岸本家の方々に挨拶をする機会もないまま雄町の圃場や酒造りの現場を訪ね、雄町の酒を愛飲し、その魅力を語ってきたことにいささかの心苦しささえあった。
岸本家の方にこれまで一度もお目にかかる機会がなかったのだ。

そんな中、高島雄町米振興会 西崎瞬二会長の計らいで、ついに岸本甚造翁のご子孫との面会が実現した。
岸本晴安さん。甚造翁から数えて七代目にあたる方だ。
昭和25年(1950年)生まれだから、今年で御年74歳になる。

ところが、晴安さんの代にもなると当時のことはほとんどわからないとのことだった。
晴安さんが気をきかせて手もとにある限りの資料を持参してくださったが、甚造翁の代までさかのぼるだけでも難儀したほどだ。
戸籍をたどるにも限界があり、甚造翁以降の長男の系譜だけはなんとかつながったものの、今となっては甚造翁の妻の名前さえもわからないという。
甚造翁もまさか「雄町」が全国の造り手を魅了する酒米になるなんて想像もしていなかっただろう。

残念ながら同地区における雄町の栽培が一時期途絶えてしまったことも、遠因の一つと言えるだろうか。
昭和50年代頃になって、晴安さんの父である林(はやし)さんたちが雄町の栽培復活を果たしたが、林さん自身は結局その後、雄町の栽培から離れてしまった。
晴安さん自身も雄町の栽培には関わっておらず、現在は米や野菜を自家用に育てる程度にすぎないという。
林さんが最初に雄町を栽培したというご自宅北側にあった田んぼも、現在はすでに宅地となってしまっている。

限られた資料に目を通しながら1時間半ほどたわいもない話をしただろうか。
結局、新たな事実との出合いはほとんどなかった。

歴史あるもの、その道のりを鮮明にたどることは難しい。
特に岸本甚造翁のような一個人の農家であれば、なおさらだ。
それでも、どこかにまだ手がかりはあるかもしれない。
希望だけは持ち続けていたい。
たとえ断片的な記録であっても、いつかそれらをつなぐことで明らかなることもきっとあると思うから。

今はとにかく、岸本家に挨拶できたことをうれしく思うし、ほっとしている。
貴重な場を設定してくださった西崎会長にも、心から感謝したい。



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